2015年7月2日木曜日

沖縄・辺野古訪問記・不屈の闘い・その2

5月28日(木) いよいよ辺野古行きだが、天気の予想が良くないので、 船に乗れないとのことで、予定を遅らせて、9時半に 井手さんの車で、たっぺさんと田中みどりさん同乗して出発! 那覇は、天気悪くなく、少し雲も薄くなっている。 この調子だと、昨夜の演奏で嵐も退散などと言っていたが!? 途中ルミコさん拾って、久志郵便局へ! 途中から雲行き怪しくなり、ぽつぽつと雨が! 郵便局で、新里君、案内してくれる浅井さん、市議会議員の 東恩納村さんと合流。大浦湾が見える所に移動する。 雨、風吹く中、湾を望むと、ほとんど湾の大部分をブイフロートが 囲んでいる。立ち入り禁止区域は、最初岸から200メートルだったのが、272メートルに拡大! 天気が良ければ、はるか遠くに見える、ボーリング船などの搬入口まで船で行って、 カヌーなどで搬入阻止の様子など間近に見れたとのこと。残念! フロートの外側に見える数隻の船は、辺野古の漁船で、漁が出来ないので、 一日10万円で見張り役に!ええーっ!辺野古は、基地移転認めた代わりに、 一軒あたり保証金1億円とのこと。もっと良く見える丘に登る。 そこで、琉球新聞の取材を受ける。 それから道の駅に寄って、昼食取りながら、また話を聞く。 ジュゴンの生息数は、3頭に!ボーリングの搬入船も隠れて深夜に! しかし、8月までに12本打ち込む予定が、激しい抵抗で阻止し、まだ3本に止めている。 浅野さんも仕事終わってから、毎晩キャンプ前のデモテントに行って、搬入車両など 監視し、いつでも阻止できるようがんばっている。 権力の力に対抗できるのは、知力! いよいよ、シュワブ第2キャンプ入り口前の、テントへ! 大きいテントは、5つ位あって、どこも雨の中、 一杯来ていて、凄いエネルギーで、基地反対を! 浅井さんの奥さんや大五郎さん夫婦も来てくれ、再会を喜ぶ。 また東京から永年のファンの男性が、ずっとここでカヌーに乗って、 参加してると聞いて、びっくり!嬉しくなる。 早速、カンパの23、600を寄付し、皆さんに紹介され、 トランペットの新里君と渡良瀬をピアニカで演奏。 演奏が始まるや、雨がドシャ降りになり、ずぶぬれになっての演奏だった。 みなさんに、ありがとうと言われ、「これから機会ある度に、この今の状況を 伝えて行きますから、共に頑張りましょう!」と! 雨もますます激しくなり、雷も鳴りだし、天気予報とおりに。 疲れも増し、那覇へ! 那覇に戻ると、雨は、止み、天気回復。 一休みして、たっぺちゃんとモノレールで、 お馴染みのステーキハウス・ジャッキーで食事。 安くて美味い! その後、昨夜の会場チャイハナによって、 アキヒコさんと飲む。 沖縄は、琉球王朝の時は、中国とも仲良くやっていて、 薩摩藩が攻めてきて、日本領に!今でもそのことで、 薩摩嫌いは、潜在意識に残っているらしい。 その後、アメリカに占領され、日本復帰したが、復帰前、 かなり独立の機運が、高まったらしいが、どういうわけか、 当時の教育委員会などが、猛反対して独立にならなかったという。 また彼の父は、戦争当時NHKの放送関係の仕事についていて、 多くの人と洞穴に逃げ、いよいよ最後の集団自決かという時に、 その中にいた同僚のアメリカ帰りの人が、米軍は、降参した人を殺す ようなことは、しないから穴から出て降伏するよう勧められて、 捕虜になって、アメリカに連れて行かれたりして生き延びたらしい。 多数の命が、奪われ、今も日本の米軍基地70%以上の土地が返されず、 なおかつ譜照間飛行場移転で、負担軽減などと言いながら、 史上最大の軍港基地を辺野古に作ろうとしている。 これができたら、日米100年以上ここを拠点とし、 基地軽減などは、夢に! 70年米軍基地に苦しめられた沖縄の人達の苦しみに寄り添うなら、 県外移設は、心底の思いであり、この思いを無視して続ける政府は、 弱い者いじめの何者でもない。 明日は帰京日だが、飛行機は夜なので、 晴れてたら、また辺野古に行こうと思う。 つづく